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JALのこんな進化

市が主催した提案募集で公園化案を最優秀にしたのであるから、ゆくゆくは四三メートル幅の全体を、少なくとも実際こうした発想は市民の中にかなり定着しているようだ。 最近でも、大学通り沿いの駅近くで持ち上がった高層ビルの建築計画には、早速反対運動が起こった。
運動では、「景観条例」を提案し、「大学通り公園」と一帯となった周辺の景観づくりを唱っている。 大学通り公園のような並木道という認識が市民に強く存在するのであろう。

絵になるシンボル空間、快適な交通空間という二つの機能を有する空間として整えていくことが期待される。 大学通りや国立大学町の開発を考えると、Tyの先駆的な都市づくりのアイデアに感心すると同時に、ある疑問が湧いてくる。
「公が行う都市計画は一体何を国立にもたらしたのか?」である。 国立市はかって谷保村と呼ばれており、大学町の開発までは甲州街道沿いの人口三千ほどの農村で、米作と養蚕が主産業であった。
町制が施行され国立町となったのは戦後一九五一年、市制施行は一九六七年のことであったが、大学町の開発は、周辺の地区に先駆けて国立の都市化をもたらし、新しい国立のスタートとなった。 地図を眺めるとわかるのだが、これだけ開発者の計画意図が町並みにはっきり表れている町はそう見当たらない。
区画が整然としているというだけだったら、同じくTyが開発した小平学園都市や、その他の区画整理地をあげることができるが、駅を起点に、骨格となる幹線道路を配した構成となるとほとんどの町が失格である。 しかし、国立でも大学町を除けば事情は同じである。
国立では大学町に続く街づくりとして一九六〇年代初めからNj公団による区画整理と団地開発が行われた。 区画整理区域は、南武線の北側一体、二八万坪(九二ヘクタール)に及んだ。
これで中央線と南武線の間、市域のほぼ四五%が計画的に整備されたことになる。 しかし、住宅公団の区画整理地の仕上がり具合は大学町には及ばない。
住宅地の構成はともかく、大学通りに比べ得るシンボル空間が存在しないからである。 大学通りに連なり南武線谷保駅に至る道路も、街路樹はあるものの、幅員は狭く、大学通りのもつ象徴性は感じられない。

町の区画は整理したが、風格はつくり出せなかったというべきであろうか。 もし公団に、Tyの思いを受け継いで、大学通りを同じ構造で谷保駅まで延ばすセンスがあったなら、街づくりの継続性と発展性が保証されたのにと惜しまれるのである。

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